トランスジェンダー、ノンバイナリー、在日朝鮮人、入管被収容者、非正規滞在者、障害者、セックスワーカー、野宿者、女性、周縁化された様々な人々への、暴力と差別をやめろ!

障害者差別について

 2022年末、様々な差別発言の追及を受けた杉田水脈議員は国会議員の地位は残したままですが、総務政務官を辞職しました。その発言には「LGBTカップルは子どもをつくらないから、生産性がないので税金を使うべきではない」という趣旨の2018年におこなった主張もあります。労働力(子ども)を産みださない存在を社会に役立たない存在だと決め付け、切り捨てる論理です。個人の価値を「生産性」に集約する考え方は、障害者差別の肯定化につながります。そのため障害者からも批判の声があがっています。いまだにそのような用語を使う政治家がいることに恐怖を感じずにはいられません。
 大戦前の1940年につくられた「国民優生法」は、「優生思想」にもとづき、障害者の「断種手術」を強制するものでした。そのような中、障害児学校の都立光明学校の障害児童は、国民学校が次々と疎開するなか、最後まで取り残され、疎開できたのは終戦のわずか3ヶ月前のことだそうです。「ごくつぶし」だとされ、毎回の食事も申し訳なさそうに食べていたと言います。この疎開先に対し軍部から「処置用」の青酸カリが渡されたという話も伝わっています。また、脳性まひの松田春廣さんは、兵隊になれないっていうことで「非国民」「ごくつぶし」という言葉を平気で投げつけらたという体験をテレビで語られました。食糧難になると食事を与えられず、口減らしのために、殺されそうになったとも語られています。その一方で、戦争が、多くの人に心身の障害を強いたことはなんという矛盾でしょうか。
 これは過去の話ではありません。「国民優生法」は戦後「優生保護法」と名を変えて1996年の改正まで続きます。その法律の下で「強制不妊手術」を受けた障害者が「憲法違反」であるとした裁判を続けています。また2016年に神奈川県の「津久井やまゆり園」で入所者19人を刺殺した植松聖元職員は「重度・重複障害者を養うには莫大なお金と時間が奪われる」と主張して自分の行動を正当化しています。
 私たちはこのような健全者中心主義から産まれる社会の矛盾を可視化し、乗り越える必要性を訴えます。多数者の「当たり前」が障害者の権利を奪い続けています。
 障害者はニーズを訴えることで、自らの権利を一つ一つ獲得しなければなりませんでした。例えば、1970年代「まちへ出よう!」という呼びかけをおこない、段差解消やスロープ化、車イストイレの設置を求めた運動を開始しました。そのような中で、脳性まひ者の運動体「全国青い芝の会連合会」は、車イス利用者の乗車拒否を正当化する規制をバス会社が始めたことに対して、怒りをもって訴える「川崎バス闘争」を1977年に取り組みます。その後も多くの団体が、ねばり強く「まちづくり」と交通アクセス運動に取り組んだ結果、全国各地でまちづくり条例の整備がはじまり、1994年の「ハートビル法」や2000年の「交通バリアフリー法」に結実します。
 一方で、2021年、車イス障害者の伊是名夏子さんはそのブログでJRに受けた乗車拒否の体験を訴えています。そして、伊是名さんにたいして、あまりにも攻撃的な中傷がネット上でおこなわれ、デマや人格攻撃までおこなわれました。まさしく「優生思想」や健全者中心主義がそのように表れているのだと感じずにはいられません。
 障害者と言っても、一人ひとりニーズは様々です。例えば視覚障害であっても、まったく見えない、近づけば見える、白黒反転すれば文字が見えるなどいろいろありますし、点字が読める人もあれば読めない人もいます。視覚障害とともに車椅子の人もあれば、耳も聞こえない人もいます。中には障害者の認定を受けられない人もいます。障害者は一人ひとりニーズが大きく異なりますが、そのニーズにあった対応を受けているとは言えません。
 聴覚障害者は長きにわたり「口話教育」(聴覚障害者に読唇や発声の練習をさせ、音声言語を習得させようとする教育)を強制されてきました。1933年にはろう学校で手話を使用することが禁止され、手話を使うと体罰を受けるような時代が最近まで続きます。手話言語条例は、2013年に鳥取県にはじまり、2023年2月8日時点で464の自治体に広がる一方で、今も学校教育で手話教育を受ける権利が保障されているとは言い難い状況にあります。手話教育があれば十分だという話ではありません。2022年12月に「北海道札幌聾学校」に通う小学3年生の子どもが「日本手話」で学ぶ権利を求めて裁判をはじめ、2023年1月には小学6年生もそれに続きました。二人が使う「日本手話」とクラス担任が使う口語に対応した「日本語対応手話」はまったく文法が違います。意思の疎通ができない状況で教育を受けさせられていることは憲法の下の教育を受ける権利が保障されていないという訴えです。このこともまたニーズと社会のズレを大きく感じる問題です。
 教育が障害当事者のニーズを無視している流れとして、2022年4月に文科省が「特別支援学級に在籍する児童・生徒は週の半分以上の授業を特別支援学級で学ぶように促す」通知がおこなわれました。その一方、国連の障害者権利委員会は2022年9月に日本の障害児分離教育の中止を求める勧告をおこなっています。分離を前提とした教育環境は、地域で生きたいという障害者の願いを否定するだけではなく、障害理解を阻み健全者中心主義を当然視する考えを育てる環境をつくりだす問題もあると思います。
 仮に日常的に生活保障がおこなわれていたとしても、災害が起こった時に、住民の多くが困難を抱えている中で、障害者は後回しにされることがあります。日本自閉症協会は東日本大震災の調査研究で「自閉症の子どもたちの多くは避難所に入れなかったり、入れても泣き叫んだり、跳びはねるために怒鳴りつけられ、車中や被災した自宅で過ごしたり、親戚の家を転々としていた。避難所に入っていないために水や食料品の配給が受けられず、障害児を抱えながら長時間店の前に並んだ人もいた。」という報告をしています。また台風による停電により人工呼吸器を使用する障害者が内部電源が切れれば終わりと死を覚悟したという話も聞きます。日常のサービスを、非常時に継続することができる体制づくりが求められているのだと強く感じられます。
 一人ひとりが人間として生きる権利を否定されない社会をめざし、障害者の権利を訴える声を支持し、それらを押しつぶそうとする声に抗議の声をあげていきましょう。

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