トランスジェンダー、ノンバイナリー、在日朝鮮人、入管被収容者、非正規滞在者、障害者、セックスワーカー、野宿者、女性、周縁化された様々な人々への、暴力と差別をやめろ!

「家族」偏重の社会を変えたい

 先日、ある高齢の知人が入院した。その人は配偶者や子どもはいないが、周囲にたくさんの友人を持ち、日ごろから親しくつきあっていた。入院した時も、さっそく友人たちが連絡をとりあって、見舞いや付き添いの計画を立てた。
 しかし友人たちが病院に行ってみると、病院は「家族ではないから」と病室に入れてくれなかったそうだ。新型コロナが流行している時期ということもあり、「面会は家族のみ」と一律に拒否されたという。代わりに遠方から法律上の「家族」が呼ばれたが、本人のことを普段からよく知っていて信頼関係ができているのは、実際には遠くの親族ではなく近くの他人の方だ。友人たちも、それを聞いた周囲の人たちも病院の対応に困惑していた。
 こういう話は今の日本社会では珍しくない。血縁関係があったり法的に婚姻していたりする「家族」なら当然のように許されることが、そうではない人には許されない。病院の面会や手術の同意のような場面で、いくら本人と親しい関係にあっても、本人がその人の立ち合いを希望すると意思表示していても、許されないことがある。本人の意思よりも戸籍や法的な形式が優先されてしまうのだ。
 日本ではいまだに法的な婚姻のできない同性カップルにとって、この問題は深刻だ。何十年も共に生きてきた同性パートナーが「他人」として面会拒否されたというような話を今でも聞く。実際には事前に意思表示書を準備したり、病院にきちんと話をしておいたりすることで可能になる場合もあるのだが、それなりに手間はかかる。そこで、だから同性婚をできるようにしなければ、と考える人たちがいる。その気持ちはとてもよくわかる。確かに法的に結婚できるようになれば、現在の法的な「夫婦」がもつたくさんの特権を自動的に使えるようになるだろう。
 でも、それでいいのだろうか、と私は思う。
 私は単身で暮らしていて、今後も特定のパートナーを持つ予定はない。誰かと固定した「家族」になることに興味がなく、たとえ同性婚ができるようになったとしても、制度を利用することはなさそうだ。だからといって孤独に生きているのではなく、一人のパートナーの代わりに何人もの信頼できる友人や知人がいる。突然病気になったり、何か困難な状況になった時には、疎遠な親族などではなくその人たちに助けてもらいたいと思っている。でも、今の日本の社会はそういう人間にとってとても不便だ。
 私のような人間にとっては、「同性でも結婚できる社会」ではなく、結婚していなくても、法的な「家族」がいなくても何かの時に困らない社会の方がいい。何かの時に傍にいてほしい他人もいれば、絶対に会いたくない親族もいる。そういうことを、私自身の意思をきちんと聞いて尊重してくれる社会がいい。
 「家族」という言葉は今の社会で、まだ何か魔法の言葉のように使われている。「家族だから」というと信頼しあって当然というような幻想が立ち上がる。実際には、だましあったり傷つけあったり、殺しあったりする可能性が一番高いのも「家族」なのだが。社会を変えたくない保守派は、たいてい「家族を守る」と強調する。「家族」は特定の宗教を持たない人にまで漠然と信仰されている宗教のように見える。
 私は、こういう「家族」偏重の社会を変えたい。「家族の破壊」をとても恐ろしいことのように語る人がいるが、私は「家族」がなくても困らない社会をこそ夢見ている。「家族」信仰のなくなった世界は、一人一人が今よりも個人として尊重され、個人と個人として信頼関係を結ぶことができる、今よりもずっと風通しのいい世界になるはずだからだ。

文責:しっしー

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